Kojisantino’s Journal

シニアが描く日記以上日誌未満

デューイって?はてな?

デューイ × 生活としての芸術!!

 

タイトルに魅かれて、衝動買いみたいな感じで購入してしまった。

少々お高い本だったけれど、外れ本でないと確信して買ったわけで。

 

しかし帰宅して、ふと思わずにはいられない。

デューイ!!このお名前、

過去どこでお目にかかったものだったかと。

・・・えっと、えっとと。

 

そして、ゆるりと思い出してきました。

 

あれは大阪の三流の学校を卒業したものの、やりたいことが

はっきりせず、どうしたらいいべかと思い悩んでいた頃。

 

文化クラブの先輩が教師になっていことを知って、

それなら自分もいっちょ挑戦してみるかと。

実際は、ただのモラトリアル期間延長みたいな感じでも

あったのですが。

 

小学校教員免許二級の資格を取れる京都の仏教大学に

在籍しました。通信課程で1年間のうちに、

教育学初め幾つかの定められた学科そして

レポートや実習をこなして取得するのですが、

その学科の中のあるテキストにディ―イの名前が

確かありました。

 

名前を薄ぼんやりとでも覚えてて忘れてはしなかったからこそ、

今回、本屋でまずタイトルの <生活としての芸術>に目

を引き付けられながら、本を手に取ってパラパラめくり、

さて、このデューイとはどんな人だったかと。

 

しかし、この本を買った文化博物館では表表紙を

上向きにして陳列してあったは、大きかったですね。

それも一冊づつ置かれてあって、積まれてなかった。

 

渋い表紙であると一瞬で思って。そして子供が二人、それぞれ

何やら手作りらしき看板を持って微笑みながらこちらを

見やっている。豊かな空気が漂っている。

英語の文字が見えるではありませんか。

 

まあともかく、デューイに過去、出会っていることを

確認しながら、思えば実に40数年振りの再会だと

は感慨無量だったですね。

 

そして、一気にその時間を埋めるべく、最近は頭の中あれこれ

充満してそれこそ少々の躁状態に陥ってしまっています。

 

あー、あんな教育本もあったなぁとか、違った本はどんな

ものが出ているのかなぁとまで。

 

そして実は、デューイという名前と久しぶりに再会した同じようなことが

もうひとつ、最近起こったばかりだったので、余計に躁状態

めいた感じになっているのだと思います。

 

それは自分では困ったことと思うより、内心嬉しい面が強いのですが、

次から次からあれこれ考えたりしながら本を何冊も読みこなす日が続くのは

、まあまあしんどいことです。(笑い)

 

何かしら長年のブランクを埋めるべく、みたいな感じで

しばらく日々が過ぎ去ってゆく気がします。

 

実は冬の間は病で床についていて、春になって

ようやく回復の兆しが見えてきたところなので

あまり無理はできないと思っているのですが、

何分、読みたい本が悲鳴を上げるほど沢山出てき

ているので嬉しいやら何とやらでついつい・・・。

 

本調子ではないので今はあまり無理はできないよと

自分に呼び掛けているのはいるのですが。

 

好きこそ物の上手なれ。でも、好きが乗じて

体を心底壊してしまっては元も子もありません。

復活できずに終わってしまいます。

まだまだ、やりたいことあるし (笑い)

 

で、話を戻せば・・・

 

40数年振りに再会したもうひとりの

お名前は・・・

 

<中断・続く>

 

 



 

 

”なんで英語やるの?”

昔、なんで英語やるの?という本が

多くの人に読まれたことがありました。

ご存じな方もおられるかと思います。

 

ノンネイティブの女性英語教師の奮闘記でした。

 

ところで、私自身、なんでこうもいつまで経っても

喋れない英語をいまだにやってるかといえば

 

面白いから!!・・・に尽きると思います。

 

というか、子供のころを思い出させてくれて、

ちょっとワクワクしてくる。

 

姉が塾通いをしていて、自分もそこの塾に行かせてくれと言って

親に願って通うようになったんですが、

 

そこの先生の教え方がそれはそれはユニークで、初っ端の時間に

ですね、ダジャレを使って英単語を覚えさせようとしたんですよ。

 

月には人間すマンデイ。

火に水をかけてチューズデイ。

水田には苗をウエンズデイ。

木刀を腰にサーズディ。

金ピラ、コンピラ、フライディ。

お土産買って、ごぶサタディ。

日本一の富士サンディ。

 

なんてね。

 

これにハマってしまって、英語が好きになってしまったわけです。

小学校5年生でした。

 

でも考えたら、国が違えども言葉を使ってるのは

同じ人間という種なんだから、すべての言葉は

つながっていてもおかしくはないわけですよね。

 

なので、こんな感じで負担なく面白く、

日々、英語に向かったほうが

いいのだと思いますよ。ほんとに。

 

そして、今、

”FEMINISM IS  FOR  EVERYBODY"

なんていう海外の著者

(bell hooks,the author of Feminist Theory)

ベル・フックス - Wikipedia

を手にしてて。

 

ちょっとぜいたくだけど、

文を音声で聞き流しています。

ええ、毎日。

 

またこれがこれが。

面白くてやめれません、のです。

 

まあ、自分が好んで手に取った本だから

音声でただただ聞き流してるだけ

でも飽きない、飽きない。

 

それと最近楽しいのは、その聞き流しに触発

された感じで、高校生のころ時間があれば

一生懸命に握りしめていた単語本を開けて

懐かしい単語達、それらを忘れている

覚えている関係なくまた睨めっこ時間を持つ。

 

汗と涙に詰まった思い出の一冊。

自分にとって渾身の書物だった。

 

それこそは、

 

・・・森一郎著・試験に出る英単語!!

 

左側。右側がダジャレ本

で、上記右側が個人的に森一郎先生の本の下地に

なっていて、やはり時間があれば手に取っていた本。

小さめの本だから扱いやすいのがまた幸いしました。

結構、手が小さいわたしでも

日々、苦になく手にできたのがよかった。

 

しかし、しかし、このダジャレ本(あ、言い方失礼かな)を本屋で見

つけて、おそらく即買いしたと想像できるのは、これまた下地があった

訳で、、。

 

つまり、小学校5年生に面白いやり方で英語を

学ぶ方法を知ったからこそ可能だったのですね。

 

そして、最後に今回の話のまとめ。

 

上の二冊に次の本が加わったからこそ

実は、最近とみにとみに英語を楽しみながら

続けられているんです。

 

この一冊を加えることで英語学習が効果倍増になるし、

英語の語源を学ぶことは

言葉自体に強くなるように思われます。

 

 

 

本好きで英語好き

 

五木寛之著「青春の門」

人生で二冊目の本でした。

本好きで、自分ではたくさん読んできたほうだとは思いますが、
人と比べてどうなんでしょうかね。


五木寛之さんのエッセイや小説をよく読んできました。

 

だいたいが五木さんの本を初めて読んだのは、二十歳
になる前の世の中のことなど何も知らなかった、そう
ですねー、今思えば自分にとっては暗くて長く苦しい時
の頃でしたね。

まあ、それは今もって思い出したくもない時分のこと。


高校を卒業して、上の学校へ行くのに一年浪人すること
になったんですが、早々に予備校をやめてしまい、
アルバイトに熱中し始めていました。

地元、大阪駅構内で新聞を列車に積み込む重労働の
仕事に就きました。初めての稼ぎ経験。

 

現在はトラック輸送が発達してもうこの種の仕事はなくなって
いるんでしょうけど。

列車に新聞の束を人力で放り込む懐かしい仕事です。


それで、その仕事の休憩時間にに五木さんの小説をしっかりと
握りしめていたものでした。

その本こそは
後に映画化されもした「青春の門」でした。

 

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ところで、若い中高校生の時代には

結構、あの太宰治の「人間失格

に影響されてしまう人が多いと思います。

わたしも例にもれず、そうでした。


そして、五木さんのその本こそはわが人生で
人間失格」に続く二冊目の本と言えるんです。


小説の中味は九州の炭鉱を舞台にした、暗くて重苦しいもの
だったですけれど、それでいて主人公の前向きに生きる姿に
読みながら内心何度も励まされていたのかもしれません。

五木さんはギリギリのところで、と言っていいのか

とにかく人生を肯定されますからね。


わたしは五木さんの御本、全部を読んでいるわけではないですが、
ここ京都で働くようになって、しばらく経ってからのこと、
一度、古本屋で、昔の恋愛小説ものを見つけて

思わず買ってしまったことがありました。


それは今までに自分がしらない五木さんの世界を垣間見える

書物でした。


あの芥川龍之介なども一風変わった小説を
書いているらしいけれど、作家さんというのは
いろんな面があり、それぞれに沿った内容の本が
書けるもんなんだなあ~と不思議と感激したものです。

 

そう言えば、その本を読んで、はからずも
涙ぐんでしまってましたかねー。

 

恋愛ものは直に響いてきて、内部に宿る熱は

すごいものがあります。


氏の本をずっと順に追って読んできた

わけでもありませんが

 

思うのは五木さん自身、何かしら死に近しい作家と
言いますかねー。
いつも自分の死の準備をしながらずっと過ごしてき

た物書きであるように見受けられます。


どの本を読んでいても、それはすごく感じます。

最後は、死ぬことなんて全然恐いことない、
生きることと同じことなんだよと呟いて、
死地に向かわれる、そんな方だと思うのです。

 

生きること、そして死ぬことについてとことん見つめてき
た人で、だからこそ日々、すべきことを後悔なくやり過ごし

ながら、後の時間を大切に生きておられる、そんな気が

します。いえ、間違いなく。


だから、そんな五木さんに対して

この先、ゆっくりゆっくりと歩いて行って頂きたい。

長生きしていただきたいと切に願っている自分です。

金閣寺炎上

ご存じのように金閣寺

お堂は、過去燃えています。

 

1950年7月2日の未明、出火の第一報があって消防隊が

駆けつけたらしいのですが、その時には

幸い人の被害はなく、一方国宝舎利殿金閣46坪が

全焼して、創建者であった室町幕府3代将軍足利義満の木

像(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀来像、仏教経巻

など文化財6点も焼失した、らしいです。(Wikipediaより)

 

その金閣寺がある京都にわたしは平成11年にやってきました。

当時は大阪に住んでいたので京阪電鉄に乗って「一日出稼ぎ」

のごとく毎日京都に働きに来ていたのです。

 

隣の県だから縁がありそうなのですが、学生の頃2,3回、

遊びに来たぐらいで京都のことは全然知らなかったと

言っていいです。

 

大阪人というのはだいたい京都という

ところをまったく知らずに育ってきます。

 

ほれ、修学旅行は、小学校では三重の伊勢方面、

中学校では静岡・伊豆半島方面、高校になるとだい

たいは東京方面で、学校によっては遠い地、北海道

とか沖縄に飛んじゃいます。

そうです。高学年になるにつれて随分と遠くに

行っちゃいます。

 

とにかく、そういうことで大阪人は京都を知る機会を

まったくと言っていいほど持たされてこなかったんじゃ

ないですか。

 

自分たちにとって、ここ京都は日本の中の異国の地みたい

なもんかもしれません、はい。

 

 

で、仕事で京都の街を車で走るよう

になってからの話ですが。

 

今、どちら向き?東向き、西向き?なんてね、

よくありましたよ。

地元のお客さんなら教えてよ、みたいな場面が出てきて。

いえ、実際はそんな失礼な言い方はしないですよ。

 

ですが、プロのタクシードラーバーとして、当初はまことに

恥ずかしいことをしていました。

 

道路が碁盤の目でできているので、覚えるまでが大変でした。

どこもそこも同じように見えます。

それに建物の高さは制限されているので、同じような高さの

交差点は特に違いが分からないです。

 

ただ、遠くを見渡せば、北や東の方面になだらかな山々が

連なっていて、ほぉー、北へ北へ走ってる、とか東へ東へ

走ってる、とか、、、。

まるでこころウキウキ絶好調、、、。

ほんに良いとこ、良いワーク。

売り上げほどほど、

ホイホイホイッ、ってね。違うか。

 

えっと、それでですね。

 

肝心な金閣のお話に戻りますと。

 

京都で働くようになって慣れてきたころに

こんなことがありました。

 

お客さんを金閣寺までお連れして、その足で

お寺の中まで入ってちょっと写真を撮らせて

もらったことがあったんです。

 

タダ(=無料)で入場しました。京都以外はどうなって

るのか聞いたことありませんが(観光地ならどこでも

おそらくそうでしょうが)、

タクシーの運転手さんなら神社仏閣にはフリーで入れるんですね。

お客さんと同行すればね。

 

で、その時、撮った写真がこれなんです。

生涯で記憶に残る思い出のひとつと言っていいでしょう。

 


www.youtube.com

 

動画としてスライドでまとめてアップしました。

 

当時のミクシィ仲間には

「今まで観た中では一番よかったわー」などとほめて

もらったもんです。

 

で、です。

 

この記事のタイトルに戻って、

 

金閣炎上のお話。

 

 

京都には三大タクシー会社があってですね。

わたしは京都にやってきて、そのうちの一つに入社しました。

そこはやはり、いっぱしの大所帯会社で、社内に観光部を

置いていたんです。

 

元々、わたしは英会話ドライバーになりたい野望らしきもの

を第一に持って京都に来ていたのでそれを実現するために、とうぜん

入社早々、観光部に入りました。

 

そして、その部でのある日の勉強会のこと。

一番前に座っていたわたしを名指しして、

その日、講師であったドライバー先輩がいきなり

こう聞いてきたんです。

 

「(ジロー君!とはまさか言わなかったですが)

はい、あなた!金閣はなぜ燃えたんでしょう・・・」

 

まあ、いきなりと言っても前段はありました。

いくつかの有名なお寺や神社をその先輩ドライバーが

説明した後で、一番前の私に何かしら目がついたのか

そのように聞いてきたんです。

 

勉強会は「修学旅行生さんのお供について」の先輩からの

アドバイスやガイダンスで、わたしは生徒さんたちと神社仏閣を

見て回るのに、とうぜん事前にいろいろ知っておかなければ

ならないのだなぁとそのぐらいの気持ちをたぶん抱きながら

参加していたわけですが、

 

突然の質問に

思わず、「美しすぎたから!!・・・」

 

先輩は、それに対して一切、アクションを示さず。

 

今になっては、内心、その時先輩どう思っていたのかなぁ、

と懐かしく思い出します。

 

でも、ひょっとしたら・・・

う~ん、できる奴、なんてね。(笑)

 

まあ、そんなこんなで、タクシードライバーのなり立て頃の

経験は懐かしく、いい想い出になってます。

 

結局、その職場には七年半在籍しました。

しかし、英会話ドラーバーを途中断念して他の会社に移籍しました。

なので、残念無念な思いとしても重なってきます。

 

あいやー。

 

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(冬の金閣寺・フリー写真)

 

三台目ジロー号

幼い頃の一台目。親に買って

もらった補助輪付き自転車。

近所に住んでいたいとこのお兄さんが気を

利かしてと思うけど、車体にジロー号と描

いてくれて、得意満面で乗り回していたも

のでした。

車輪がついているのであれば自分の体をあち

こち移動することができるので幼いながら

こころウキウキで毎日を楽しんでいたこと

でしょう。

 

こう書いてすぐ思い当たるのは、

小さい頃から多動症なところが

あったのかなぁということ。

 

(・・・しかし書くことは何と素晴らしいこと

なんだろうか。過去の自分が鮮やかに

自分の瞼に映し出されている。

近所の人に「ジロー号かい?カッコいいね~」

とか言われて、やはり得意満面に車体の文字に

見入っている自分がいる。そして今と変わらず

多動に動き回っていた・・・。)

 

そんなわけで当然成人になって

ある日のことその多動症を強く自覚する日が来るのでしたが、

そんな日々のなかでわたしはある百貨店の下請けの運送会社に

就職して働いていたことがありました。30代半ば頃。

一生懸命働いて人より仕事をこなしたので会社の役員か

らすぐ目を付けらた。

とにかく前へ前へとシャカリキに働くしか能がなかった

だけなのに会社の役員に勘違いされてしまっていた。

「こいつを本社に引っ張ろう」と。

 

だけど、本社に移動して出世まがいなことになるのは

死んでも嫌だったので会社に事あれば何かと逆らって

反抗したものでした。

今振り返れば何かしらその時、わたしは異常な

生き方をしていたのかもしれません。

その会社を辞めるまでの三年の月日は自分にとって

常ならぬ世界の真っただ中で喘いでいたのでしょう。

 

当時、今乗っている軽四輪より少しカラが大きな

お気に入りの車に乗って通勤していました。

会社で働きながらでもその車を使って自分で外回

りの仕事ができないものかと漫然と考えていたの

でした。

 

その思いは実現できなかったけれど

文字通りの三台目のジロー号をまた持つようになって

、何と思いは同じなのです。

 

懲りずに何か外回りの仕事に着手したいと思ってい

る自分がいます。

 

現職はある運送会社の運行管理の仕事に就いていますが、

中の仕事も慣れれば面白いと思えてきているし、デスク

ワークもやればこなせるんだと少し自信が付きかけのと

ころです。

しかしそうなれば外回りの仕事が自分の出発点であると

今強く意識するようにもなって感慨無量なのです。

 

幼い時の好きだったことを思い出しながら

そこからあれこれ思いめぐらすと

きっと自身を確かなところへ連れて行って

くれるのだろうと、気持ち

晴れやかになってきた自分がいます。

 

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(写真はフリーで借りてきたものです)